ノンフィクション

2010年1月 5日 (火)

消えた「最後の授業」言葉・国家・教育

/府川源一郎/

 
あなたはドーデの「最後の授業」という小説を読んだことがありますか?

そして、教科書に載っていたあの短編が、80年代を境に国内で出版されているあらゆる出版社の教科書から消えていることを知っていますか?

『感動的な小説だ。』と思って読んでいた私たちの世代の人なら、『どうして消えてしまったのだろう。』と、誰しもが疑問を持つことと思います。

どんな圧力が働いたのだろう・・・。

戦争に反対する人たちの圧力だろうか、それとも『被虐的』と日本の戦争責任を認めない人々による圧力だろうか・・・。


この本の帯に、こう書いてあります。

『かつての国民的教材「最後の授業」が86年を境に教科書から全く姿を消してしまった。一体何が起こったのか?』

これに私も興味をそそられて、この本を手に取り、扉などをながめているうちにさらにのめりこみ、研究室の貸し出し簿に記録して借り出してきました。



著者「府川源一郎(横浜教育大学教育学部助教授)」は、自分が小学生のときに教わったはずの「最後の授業」は全く記憶していません。

しかし、最初に小学校の教員として教材に使用したときに、生徒の一人から投げかけられた疑問が心にひっかかり、ずっとこの教材を研究してきたのです。



国語教育にまったく無縁の私でしたが、これを読んで俄然興味がわいてきました。

国語教育において、教科書に載っている教材は、どのような基準で選ばれているのか。

それを使って、私たちは生徒に何を学ばせようとしているのだろうか。


教材が小説の場合、小説というものは当然虚構の世界である。

まずそこに設定されている舞台を読み込んで自分のものとし、そうして得た新たな立場から世界を見つめなおすこと。

生徒達にその経験をさせることに、国語教育の意味があるのではないか。


そのような視点に立って、筆者はドーデの作者としての考え方のみならず、小説の舞台となったフランスのアルザス地方の歴史的、政治的背景を分析していきます。

さらに、この小説を教材として取り上げてきた戦前および戦後の日本の状況、そして国語教育会の教材に対する認識の発展へと、話は展開していくのです。



この短編自身の持つたいへん感傷的なタッチとうらはらに、その短編を扱ったこの本の作者は、実に客観的、そして分析的に日本の国語教育の歴史的変遷を見つめ、分析していきます。

そして「最後の授業」の短編としての価値を認めながらも、それが教科書の教材としては取り上げられなくなっていった経過を明確にしていくのです。


フィクションを題材にしたノンフィクションです。

「目からウロコ」。

そんな体験をしたいあなたは、ぜひ手にとっていただきたいです。

大修館書店 1992 定価2,060円(読んだときのデータ)

にほんブログ村 本ブログ 読書備忘録へ
にほんブログ村 ←ランキングに参加。押してくださると、励みになります。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

チューリップ・バブル

     人間を狂わせた花の物語

/マイク・ダッシュ/

 こどもの頃、大デュマの書いた『黒いチューリップ』というロマンス冒険小説を読んで、問題のチューリップってどんな姿なんだろうと、わくわくした。

17世紀の絵画を見て、この花が病気だって、信じられないと思った。
またどんな種類が
あったのか、もっと知りたいと思った。

チューリップの球根にありえない高値がついて、それをめぐって人々が争い、事件が起こる。

庭でこっそり育てる人、それを掘る人、取引する人、そして大暴落・・・

そのあまりの劇的な事実に、詳細を知りたくて、私の好奇心はくすぶり続けた。

それを満足させてくれたのが、この本である。

わずか数年間でどのように価格が高騰していったのか、球根の取引をめぐる駆け引き、そして1637年の大暴落。
暴落はたった数カ月間の出来事であった。

そのことが、さまざまな角度から詳細に、たくさんの図版入りで説明されている。

チューリップの他にも、ヒヤシンスなどで、小規模のバブルはあったという。

日本でも、江戸時代の変化朝顔などについては、同じような傾向がある。(朝顔が変化する原因は、チューリップとは異なるが。)


妖しい変化に取りつかれるマニアと、それに乗っかろうとする投機家や素人の煽るバブル。

いつの時代にも共通の『バブル』という社会問題を理解する上で、とても分かり易く、良く書き込まれたノンフィクションである。






にほんブログ村 本ブログ 読書備忘録へ
にほんブログ村 

ランキングに参加してみました。
押してくださると、励みになります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)